昨今流行ってる言葉狩りには大反対なので、こういう意見には大賛成。
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「背が高い」って、ただの身体的特徴を指す言葉だけど、たとえば背が高いことを気に病んでいる女の子には、使うべきじゃない。でも、だからと言って、誰も「背が高い」という言葉を「差別用語だ」とは言わないよね。言葉とは、そうして相手との関係性によって選び、口にするものだと思うんだ。
「カタワ」と言われても何とも思わない人もいれば、「障がい者」という表記でも、傷つく人がいる。結局は、目の前の相手がどう思うかを想像し、言葉を選んでいくしかないのに、「カタワ」はNGで、「障がい者」はOKと誰が決めたのか。誰の感情に合わせた線引きなのか。まったくわからない。
「傷つく人がいるから、公の場で使うべきでない」なら、「背が高い」「おぼっちゃま」「色が黒い」だって、公の場で使わないほうがいい。その言葉で傷つく人も、少なからずいる。でも、そんなのバカげているでしょう。目の前の相手の気持ちを考えて、言葉を選ぶでしょう。僕らには、その力がある。
なのに、障害者に関する呼称については、一対一の関係性を無視して、一律に、社会的に、「カタワ」「めくら」「つんぼ」はNGとされる。それが、なぜなのか――という疑問を提示したいのだ。その決めごと自体が、障害者に接することを腫れ物にさわるような関係性にしてしまっていないだろうか。
誤解のないよう言っておくが、僕は他人様に向かって「カタワ」だの「ダルマ」など口にしたことは一度もない。すべては、自分について。それでも「そんな言葉使うべきじゃない」と言う人がいる。「傷つく人がいるから」と。それなら、「僕は背が高いんだ」も言えなくなる。その語に傷つく人がいる。
相手を傷つける言葉を言っちゃダメ。そんなの当たり前。小学校で習ったでしょ。でも、相手がどんな言葉に傷つくかは千差万別。その関係性から探っていくしかない。そこに思いやりが生まれ、ひょっとしたら愛が生まれる。でも、対障害者には、初めからオールNG。「探っていく」が飛ばされている。
障害者だって、一律じゃない。言葉に無頓着な人もいれば、傷つきやすい人もいる。差別用語って、そんな当たりまえの前提を無視した決めごとのような気がして、僕は好きじゃない。一人ひとり、目の前の相手を見て、感じて、言葉を選ぼうよ。そんなの、相手が健常者だって、障害者だって、同じだよ。
だからね、僕に対して、一見失礼に見えるリプを飛ばす方々に対して、「失礼だ」と目くじらを立ててくださる方がいるけれど、あれ、アリなんです。僕に対しては。みんなも、わかってやってる(方がほとんど)。だからと言って、他の障害者に対して、そんな言葉をかけていいわけではない。人による。
ああ、書き過ぎた。連投ごめんなさい。でも、ええと、僕は「カタワ」です。「カタワ」で、「障害者」で、「障がい者」です。何でもいいです。どうでもいいんです。そんな呼び方――そんなふうに思っている僕のような障害者もいる。そんな言葉に傷つく障害者もいる。そんなことが理解いただけたら。
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ご本人が少し前のやりとりから他の方の返信まで含めてまとめて下さいました。
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